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ヘッジファンドの歴史(寄稿:さんまのIPO)

日本株ロングショート戦略のヘッジファンドに転職し、アナリストとしてIPO銘柄や製造業全般の中小型株の調査を担当された後、共同創業したKxShare株式会社にてIPOクロスオーバー投資ファンドを運用しているさんまのIPO氏に寄稿いただいた。今回は、ヘッジファンドの誕生や歴史に関して徹底解説する。

本コラムは、シリーズを予定しており、次回はヘッジファンドにおける運用スタイルの例をあげていき、それぞれのリスク、リターンについて統計に基づきながらお話していく。

目次

ヘッジファンドの誕生

世界で最初のヘッジファンドは1949年に設立された。

株式の買いと空売りを組み合わせて市場変動リスクを減らし、レバレッジを用いてパフォーマンスを増幅させる戦略が初めて用いられた(いまでも株式ヘッジファンドの代表的な戦略である)。

創設者のアルフレッド・ジョーンズ(Alfred Winslow Jones)は1938年にコロンビア大学で社会学博士課程を修了後、Fortune and Time紙に入社し、記者として金融とは無関係の記事を執筆していた。1949年に株式市場を様々な角度から予測する『未来予測のトレンド』という記事を公開し、彼自身が株式投資に自信を深めた。同年、友人とヘッジファンド運用会社A. W. Jones & Co.を創業した。最初の年のリターンは17%、その後も非常に順調にリターンを積み重ねていたが、その活躍が世に知れ渡ることはなかった。

世界で2番目に古いとされるヘッジファンドは、A. W. Jones出身者によって1966年に設立されたCity Associatesで、創設者はカール・ジョーンズ(Carl Jones)。

3番目はバートン・ビッグズ(Barton Biggs)により設立されたFairfield Partnersとされている。

米国で1960年代から1970年前半にかけて一部の高成長企業に資金が一極集中した所謂『Nifty Fifty相場』と呼ばれる相場があったが、バートンのFairfieldはそれらの銘柄のショートを担がれて閉鎖に追い込まれた犠牲者である。

A.   W. Jonesの投資戦略

ヘッジファンドの歴史(寄稿:さんまのIPO) IFA転職コラム

アルフレッド・ジョーンズが初めてのファンドで用いた戦略は空売りとレバレッジだった。空売りとは株を借りてきて売り、株価が下がったところで買い戻して返済する手法。ジョーンズが空売りに着目したのは、相場の方向性を当てるよりも銘柄選択を当てる方がリターンを生むという考えだった。

市場が好調な時には、買いで持った良い株が市場よりも大きく上がり(アウトパフォームと呼ぶ)、空売りした悪い株が市場よりも小さくしか上がらず(アンダーパフォームと呼ぶ)、両者の差によってネット利益を得られるとの信念を持っていた。

ジョーンズは自分の個人資産を全額ファンドに投資していた。ファンドマネージャーが自分のお金を入れてまで信じているような戦略じゃないなら、なぜ顧客が信じてくれるのか、という考えだった。この考え方も今では標準的になっており、ファンドを選ぶ際に顧客が見るべきポイントの1つとなっている。

1966年、A. W. JonesのファンドはFortune誌に紹介され、ついに人々の知るところとなった。

20%という高い成功報酬を課していたが、それを控除後でも過去5年のパフォーマンスが投資信託ベストパフォーマーに対して44%上回るパフォーマンスを残していたとの記事だった。この記事は人々を魅了し、HFの設立や富裕層からの投資が活発化した。

一過性のブームが起きた60年代と息をひそめた70年代

ジョーンズの記事もあって1960年代のブルマーケット(強気市場)では、多くのヘッジファンドが生まれた。

新参ファンドマネージャーは、ジョーンズのやり方とは似て非なるもので、彼らはブルマーケットの中でヘッジとして必要な空売りポジションに不満を持っていた。買いのレバレッジポジションばかりを持って(ネイキッドロング=裸ロングなどと呼ぶ)、強気相場の利益を倍増しすることで、短期的に成功報酬を稼ごうと考えた。しかしそのような考えは長く続かなかった。

1970年、1973年のベアマーケット(弱気相場)で大打撃を受けた。多くの若いファンドが散っていった。

そんな中でも生き残ったのが、例えば上述のジョーンズの他、ジョージ・ソロス(George Soros)、マイケル・スタインハート(Michael Steinhardt)らである。

ベアマーケットが1974年にボトムをつけると、また徐々にヘッジファンドが発生し始めた。60年代後半の悪目立ちと比較すると幾分おとなしく、ファンドの体制もファンドマネージャーと秘書の2,3人という小さなものが多かった。ほとんどが(ちゃんとヘッジする)株式ロング・ショートであった。

スターヘッジファンドの登場した80年代

ヘッジファンドの歴史(寄稿:さんまのIPO) IFA転職コラム

80年代は新規設立こそ多くなかったものの、圧倒的な収益をあげたヘッジファンドが多額の資金を集めた。

例えばジュリアン・ロバートソン(Julian Robertson)のTigerファンド、ジョージ・ソロスのQuantumファンド、ジャック・ナッシュ(Jack Nash)のOdysseyファンド、マイケル・スタインハートのファンド等は年40%近いリターンを記録し、マスコミにも注目された。

またこのころから税率の安い国(タックスヘブン)にファンドを設立することにより顧客の税負担を軽減するオフショアファンドが登場し始めた。

1980年に設立されたタイガーファンドは、当初8億円の資産だったところから高パフォーマンスにより耳目を集め、最大で2兆円以上を運用するまでに成長した。タイガーファンド自体は2000年にクローズしたが、同ファンドの出身者により作られたヘッジファンドが現在でも多く存在しており、Tiger Clubsなどと呼ばれている。

運用スタイルが多様化し業界が成長した90年代

A. W. Jonesの登場以来株式ロングショート戦略中心だった業界は、90年代に多様化、カオス化するようになった。全体の2/3のファンドが投資対象に制約の小さいグローバルマクロ戦略だった。株式ロングショートの中でもファンダメンタルを重視した良い会社の買いと悪い会社の売りによる戦略一辺倒から、アービトラージ等の戦略が増え始めていった。

タイガーに並んで大きく成長したのがジョージ・ソロスのQuantumファンドであり、こちらも1998年に2兆円以上の運用資産があり、クオンタムが業界1位、タイガーが2位の座であった。

ソロスはハンガリー系ユダヤ人で、London School of Economicsを卒業後、投資銀行でトレーダーやアナリストとして働いた後、投資ファンドArnold &S. Bleichroederに転職した。

1969年、同社からのスピンアウトで自らのファンドを立ち上げて経験を積み、1973年にジム・ロジャース(Jim Rogers)と共に自らのSoros Fund Managementを設立し、Quantumファンドを立ち上げた。このファンドはわずか5年で3倍のリターンをあげた。

ソロスの伝説的なトレードとして知られているのが、1992年のイギリスポンドの空売りである。当時のイギリスは欧州委員会における金融統合化政策であるERMに参加しており、ポンドのレートをドイルのマルクに対して2.95で安定化させる必要があった。

しかし英国経済が悪化する中でポンドへの売り圧力が強まっており、買い支えがやっとであった。中央銀行(BOE)による270億ポンドもの買い支えに対し、Quantumはポンド売りを仕掛け、最終的にポンドを暴落させることに成功した。

このトレードで1000億円以上を稼いだといわれている。ちなみに当時ソロス自身が自ら投資していたわけではなく、ファンドをスタンレー・ドラッケンミラー(Stanley Druckenmiller)に引き継いでおり、ドラッケンミラーがソロスの指示のもとで空売りを仕掛けたとのことである。

もう1つ紹介すべきファンドがある。1998年に倒産し世界の金融市場に混乱を引き起こしたLong Term Capital Management(LTCM)である。

LTCMの創設者ジョーン・メリウェザー(John Meriwether)は、1980~90年代にかけてソロモンブラザーズのプロップトレーダーとして債券アービトラージのチームを率いて荒稼ぎしていた。1994年にノーベル賞受賞者を含む博士集団を率いてLTCMを設立すると、ソロモン時代と同様、債券アービトラージ戦略でファンドを運用し、95年に43%、96年に41%という素晴らしいリターンを獲得するなどして名をあげ、倒産前の98年には4000億円以上の資産を運用するまでに成長した。

LTCMは巨額の借り入れによりレバレッジをかけて債券の買いと売りを組み合わせ、僅かな利益を得る裁定取引(アービトラージ)を行う手法であった。40億ドルの運用資産に対して取っていたポジションは1250億ドルであり、そのレバレッジは30倍だった。

この約12兆円の資産を使って米国債、ロシア国際、株式、モーゲージ、スワップ等の幅広いアセットにおいてアービトラージを組んでいた。米国トレジャリー(1年以内の短期債)を売って他のリスクの高い債券を売ることで金利差の縮小にかける取引がメインのポジションであった中で、アジア危機やロシア国債の破綻懸念などから金利差が拡大。

LTCMは証拠金を積み増す必要があったが、高いレバレッジにより借り入れが出来なかったため、流動性の薄い中で反対売買を強いられることになり、巨額の損失を計上することになった。投資や融資を通じた取引関係のあった多くの金融機関が損失に巻き込まれ、金融システム全体が危機に陥った。

参考文献

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